眠れなくなるほど面白い 図解 死の話by島田裕巳@日本文芸社

オウム真理教・破壊的カルト
オウム真理教・破壊的カルト

 本日記の数少ない読者ならばみんな知ってる「オウム真理教の手先」島田裕巳先生。
 そして、ここの読者だと、島田先生が嫌いな人は少ないのではないか。そりゃそうだ。自分たちもオウム真理教の手先なんだし。だけど、島田先生の偉いところは、見事にカムバックして、江川紹子以上に活躍しているところだと思う。

 今回ご紹介するご著書は「眠れなくなるほど面白い 図解 死の話: 「終わり」について考えると「今」が輝き出してくる」。島田先生鉄板ネタの一つだ。

布団に入って「死ぬのが怖い」と思った経験

 「死んだら、どうなるのだろう」
 子供のころ、布団に入ってから、ふとそんな問いが頭に浮かび、なんとなく怖くなったり、眠れなくなった経験はねいでしょうか。

 いきなり「つかみはOK」な前書きで始まる。ええ、私はモロにそうでした。
 第一章は人間が死ぬ過程(どの瞬間を持って死とするかから死体が腐るまで)に始まり、他の動物の死に動物の死。カゲロウがかげろうのように死んてしまうのは、食われる前にセックスしてさっさと死ぬためなんだそうだ。
 第二章は死と宗教を中心にした話。九相図なんてエグくて面白そう。要するに、死体が腐っていく過程を絵に書いて見せてマインドコンチョロールする?。オウム真理教の「バルドーの導き」と同じ発想。というのか、オウム真理教って、変なところで妙に「本格的」なのだ。
 そして最後は死の心理学的分析とでも言うのだろか、宗教を離れた「人間が死とどう向き合うか」。

 これを読んだところで、人は死ぬ必ず死ぬ絶対死ぬ死は避けられない。しかし、文章が分かりやすい上に図がたくさん入っている。興味を持った方は是非ともお買い上げになって読んでみてはどうだろうか。

何故宗教と道徳が結びついたのか

 詳しい内容については「読んでからのお楽しみ」としたい。あんまり書くと売れなくなって筆者に怒られるし。なので、個人的に興味があったことを一つ。

 第二章に「死後の報いという考えが道徳を育てた」という説がある。確かに多くの宗教は、道徳的に良いことをすると天国に行き、悪いことをすると地獄に行くというロジックを採用している。
 しかし、そもそも、どうして宗教と道徳はくっついたのだろうか。疑問に思ったことがある。死の恐怖が快楽主義と結びついたって良いはずだし、逆に宗教と数学が結びついても良いはずだ。そもそも、宗教は自然現象(病気・死)の説明や祖先崇拝がメインで、道徳と合体してなかった筈だ。

 チャッピーに聞いてみたら、(要約)小さな村から大きな国家が単位になっていくと、知らない人同士が暮らすと「監視が難しい」ので「ルールが必要」になってくる。そこで非常に便利だったのが「神はすべてを見ている」というロジックだった。チャッピー学説によると、宗教と道徳が結びついたのはゾロアスター教(紀元前1000年くらい)、更にユダヤ教の後期(紀元前200年)が出てくるらしい。氷解!

 なんとなく自分が思ったのはこんなこと。世界最初の大学であるポローニャ大学でも「徳は教えられるか」が難問になってるくらいに人間に「徳」を教えるのは難しい。徳は知識でないので、「親孝行」「辛抱」とか徳目を覚えても実行できない。そこで、「神が命じた」というロジックを考えて宗教業界と合体した。根拠もなく思っていた。

死は避けられない

 人間、いざとなったら死ぬのが怖いくせに、ちょっと滅入っただけで「死にたい」「楽に死ねる薬をくれ」と口走ってしまう。しかし、本当は死にたくない。
 そう言えば、N国時代の夏目亜季が自分のYoutubeで、自分は全身性エリテマトーデスの難病を持ち、子宮頸がんも経験して、「いつ死ぬのか」と思って生きてきたので、「死にたい」という感覚が分からないとケロッというので、スゲーっと思った。

 残念ながら神様という生物は存在しないし、天国や地獄という場所も存在しない。そもそも死体は焼却するので、脳も神経もないので別の場所で楽しかろうが苦しかろうが関係ない。もちろん「霊魂」も存在しない。
 しかし人間は誰もが死と向き合って生きていく。
 オウマーであれ宗教学者であれジャーナリストであれ、宗教や破壊的カルトにつきあっていく以上、死という問題とは一般人以上に敏感にならざるを得ない。死の問題は、マインドコンチョロールでは何も解決しないのだ。
 ではまた。

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